日本国を愛する日記

日本国を愛し、正しい歴史感を発信してゆきます。

NHK 証言記録 兵士たちの戦争「陸軍軍医の戦場」

 

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NHK 証言記録 兵士たちの戦争「陸軍軍医の戦場」

日本軍の医師として前線へ赴き、傷病兵の応急処置や緊急手術を担った軍医たち・・直面したのは予想を超える現実でした。

太平洋戦争のさ中、傷つき倒れた兵士たちを前に軍医はどのような行動を取ったか・・知られざる陸軍軍医たちの戦争を見つめます。

代々続く医師の家に生まれた三好さん・・昭和17年医大を卒業すると陸軍軍医学校へ入校、応急措置や緊急手術などの訓練を1年間受けました。

当時医師免許を持つと殆んどが軍医となりました・・三好さんは昭和19年3月、西部ニューギニアの前線部隊に配属されます・・日本から5000キロ離れたニューギニア、日本軍と連合軍の死闘が2年近く続いていました。

日本軍はすでにこの戦場に10万を超える将兵を投入・・しかし連合軍の圧倒的な火力を前に日々死傷者が続出していました・・軍医である三好さんの着任は前線の将兵が待ちわびていたものでした。

歩兵第224連隊 軍医中尉 三好正之さん(93)
「ワニを取るでしょう・・ウミガメを捕るでしょう・・その肉は部隊長には持っていかず私のところに持ってきてくれる『軍医さん食べて下さい元気でいて下さい。我々も助かるから』・・ある意味、非常に優遇されました・・持っている力を発揮して1人でも多くの命を救おうという気になった」

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太平洋戦争中軍医は、1個師団1万の兵力に対し30人が配属されました・・軍医が任務に就くのが最前線の戦場と後方の病院、負傷した兵士はまず前線で応急処置を受け、更に治療が必要となれば施設が整った病院に後送されます。

三好さんに命ぜられたのは最前線での任務、傷病兵が出ると砲弾の飛び交う中、救護に駆けつけました…

歩兵第224連隊 軍医中尉 三好正之さん(93)
「私は第一線に身をさらして兵と一緒に行動したから非常に強みがある信頼関係が強かった」


僅か半年で死者が3万人を超える過酷な作戦に加わった小澤さん
小澤太郎さん(92)はビルマの前線に配属されインパール作戦昭和19年)に参加しました・・小澤さんは衛生兵を指揮して傷病兵の救護に奔走しました。

20歳で軍医の道を選んだ小澤さん・・迷いはなかったと言います。

歩兵第213連隊 軍医中尉 小澤太郎さん(92)
「一つやってやろうかって言うような気持でしょうか・・一働きしようかという気持ちで出征しました」

戦局が悪化する中、日本軍は連合軍の拠点インパールを叩き、一気に攻勢へ出ようとします・・弾薬や食料の補給の無いまま急峻な山岳地帯を行軍、落後兵が日に日に増えて行きました。

寺を接収した野戦病院に小澤さんが傷病兵を送り届けた時の事です…

歩兵第213連隊 軍医中尉 小澤太郎さん(92)
「お寺さんの本堂に濡れ縁が出ている・・濡れ縁に尻を縁から出して垂れ流しで寝ている患者がたくさんいる・・こうなったら手当のしようがない・・マラリアアメーバ赤痢が一緒になってしまって栄養失調がくると死ぬのを待つだけだよ」

小澤さんは傷病兵をタンカに乗せ後方へ運ぼうとします・・しかし激しい戦闘や病で兵力が失われる中、傷病兵後送の任務に人員を裂く余裕が無くなって行きます。

小澤さんは軍医としての決断を迫られます…

歩兵第213連隊 軍医中尉 小澤太郎さん(92)
「前線から誰か付いて後送する余裕が無いから少しでも自分で動ける者は『自分で下がれ』と放すわけです・・それが途中でみんな動けなくなって道端にゴロゴロ転がって死んでゆく・・それで白骨街道を作っていく」

「心残りなんて気持ちは無かったね・・どうしょうもなかった・・自分は最善を尽くしている・・これ以上は尽くしようが無い勤務をしているから・・心残りなんて余裕はないです」


ニューギニアの三好さんも絶望的な状況に直面していました
連合軍が制空権と制海権を握ったためニューギニアへの補給は完全に途絶えます・・兵士たちに下った命令は自力で食料や武器を調達し、戦い続けろというものでした。

3300人いた三好さんの部隊、生存者はすでに3割を切っていました…

歩兵第224連隊 軍医中尉 三好正之さん(93)
「薬が無い、栄養剤も無い、食料も無い、そういうところで十分な治療ができるはずがない・・麻酔薬も無いから骨折しても手術ができない・・救えないのは当然です」

「生きておるのに銀バエがたかっておる・・死臭がしよるんです・・便は垂れ流し、だから便所の上に寝かしているようなもんだ・・だから死が直前に迫っている事は自分で自覚している」

「私が診察いくでしょ・・すると『軍医さん ひとつこの状況を郷土の人に知らせてくれ』・・『我々は死んでもいいから頑張ってるんだという実情だけは知らせてくれ』そういう事を言っておった」

更に生き延びた8割がマラリアを発症、兵士の命を使命としていた三好さん・・しかしその思いとはかけ離れた現実がありました。

歩兵第224連隊 軍医中尉 三好正之さん(93)
「最終は死んでゆく人が多い・・その時は自分はダメだと思って手榴弾の信管抜いて自決する・・戦闘の苦しみよりも自然に体力が弱って悩み悩んで精神病の状態に陥っていくのは悲惨ですよ」

「軍医でも死んだ人多かったですよ・・青酸カリを持っていたから」

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戦場における軍医の使命を記した文書です…
「軍医学校の教科書にある人的戦力の増強、軍医の目的は人的戦力の強化にあるとされています・・その為、傷病兵の治療は短時間で行い、一刻も早く原隊復帰させる事が軍医たちに求められました」(陸軍軍医団 軍陣衛生要務講義録)

歩兵第224連隊 軍医中尉 三好正之さん(93)
「中隊長が『お前来い』って引っ張って行って戦闘に参加させる・・まだ治っていないのに・・だからそのまま途中で前線に行くまでに死ぬ者も多かった」

前線で応急処置を受けた傷病兵は後方の病院で治療を受けた後、軍医の判断に基づき原隊復帰します・・しかし戦況の悪化の中でこうした軍医の判断が軍の上層部から軽視されるようになります。

歩兵第224連隊 軍医中尉 三好正之さん(93)
「人の命を大切にして少しでも生き残らせるほうが良いと思って前線へ行ってはいけないと意見具申したことはある・・それでも無理やり連れてった部分もある」

「最後の目的は勝つ事、負けたらダメだから勝つためにはどうしても人を連れていかなきゃならん・・情けないなと思う」

戦力増強を使命とする軍医、その存在が重要視されるキッカケは昭和14年ノモンハン事件でした・・ソ連軍を前に2万人近い死傷者を出した武力衝突です。

国は将来のソ連との戦いを想定し軍医の需要の激増を予測、昭和17年度までに軍医の需要は3万人・・昭和18年度以降は大需要・・しかし国内の医師数は6万3000人・・軍医不足に陸軍は危機感をつのらせます。

この時、陸軍省から文部省に出された要望書です『総力戦に応えるべき医師の急速増加養成』従来の大学教育以外で医師免許を得られる臨時医学専門部の設置を求めました。

政府と軍が一体となって推し進めた軍医の大量養成計画・・その後、太平洋戦争が開戦、更に多数の軍医を早急に養成する事が必要になったのです。

歩兵第224連隊 軍医中尉 三好正之さん(93)
「軍は戦線を広げたから軍医が必要になってきた・・軍はね医学の事あまり知らないから速成に何でも医者ならば看護婦や衛生兵よりは良いだろうといって軍医の募集を始めたね」


軍医学校卒業後直ちにビルマに送られた小澤さん・・医師としての経験の乏しさを突き付けられました
歩兵第213連隊 軍医中尉 小澤太郎さん(92)
「1人の兵隊が砲弾で腹を割られている学校で習ってないからお手上げだ・・そしたら前線に長くいる衛生兵が『軍医殿 麻薬を1本打って下さい』というんです・・痛みを止めると腹圧が下がるので腸がお腹におさまるんですよ・・むしろ兵隊さんが教えてくれる・・前線に新人の軍医をすぐに配置した。それぐらい軍医は不足していた」

軍医学校を出ていない一般の医師も次々と戦場に送り込まれてゆきました・・湯浅さん(94)もその一人です・・東京都内の病院で内科医として勤務していた湯浅さん・・昭和17年の2月、中国の陸軍病院に着任します。

日中戦争が始まって以来、長くこう着状態が続いていた中国、太平洋戦争が開戦すると軍医の多くが南方の戦地へ転属させられ、中国では熟練した軍医の不足が深刻化していました。

潞安陸軍病院 軍医中尉 湯浅謙さん(94)
「外科の手術が出来る軍医が招集してもいない・・だから内科、小児科の軍医だって手術演習をして手術できる軍医を養成しなければ戦闘に耐えない・・軍医がいなくちゃ戦争出来ないからね」

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湯浅さんが着任したのは山西省にある潞安陸軍病院、軍医10名を中心に衛生兵、看護婦など100名あまりが勤務、昭和12年、日本軍がこの地域を占領した直後に設立され前線や野戦病院から送り込まれた傷病兵の治療に当たっていました。

潞安陸軍病院 衛生兵 小島宏さん(89)
「患者を乗せた車がいっぱい来るんですわ・・病室に入る余裕なんかないですわ・・そのくらい着てました・・戦傷患者の場合は猶予ありませんから開腹手術、足の切断、早く決めなきゃなりません・・大きな作戦があった時は夜も寝られない連日勤務です」

陸軍軍医学校では中国戦線の治療や手術の実態についてかねてから問題視する声が上がっていました・・腹部に弾を受けある野戦病院で手術を受けたものの死亡率は66%にのぼった・・前線で20名に手術を行ったが1名も効果が無かった。


事態の改善のため軍医学校教官は提言しています
「困難なる手術も前線にて行い野戦病院での手術能力を強化する必要がある」

昭和17年3月、湯浅さんはある手術演習への参加を求められます・・潞安陸軍病院の敷地の隅にある小さな建物の中での事でした。

潞安陸軍病院 軍医中尉 湯浅謙さん(94)
「そこには(生体で開腹手術される)2人の男がいたんです・・中国人です・・一人はがっちりした体格、もう一人は背の低い男でした・・怯えて泣いています」

「36師団の軍医を10人近く集めて教官が『救急手術が出来るような演習をさせる』と言います・・『日本軍が戦争に勝つために軍医が演習するんだ・・おじけるな!』こういうふうに言われるから」

陸軍がこの地域の拠点病院とした潞安陸軍病院・・野戦病院の軍医を集め演習を行うのが役割の一つでした・・湯浅さんが加わった手術演習の場には潞安陸軍病院の同僚軍医、音羽さんがいました。

音羽さんはこの時、潞安陸軍病院の院長だった軍医中佐から演習への参加を求められ教官の一人を努めました。

潞安陸軍病院 軍医中尉 音羽博次さん(94)
「あの時は50人近くいたんではないですかね・・それだけの人数が一堂に会してそういう事をやったわけですよ・・その教官の一人に私がたまたまなったわけですよ」

「捕虜への執刀をみんながやったわけだ・・新たな技術を身に付けたいという気持ちは医者として当然あったと思います」

「出来れば断りたかった・・その時は断れるような立場になかったから・・しかたなく引き受けたようなもんだ」

この潞安陸軍病院の手術演習について軍がどうかかわったかを示す資料は残っていません・・しかし潞安病院が所属する北支那方面軍の一部では、生体での手術演習が検討されたという資料が残っています。

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陸軍省の戦時月報に昭和15年3月に報告された『駐蒙軍 冬季試験 衛生研究班計画』です・・生体を使った開腹術に輸血の試験など多岐にわたる演習計画、軍医の手術能力向上が急務とされていた事が伺えます。

潞安陸軍病院に昭和20年に衛生兵として配属された久保さん(86)は終戦の時に衛生班の班長から厳しく言い渡された事があります。

潞安陸軍病院 衛生兵 久保勝さん(86)
「『内地に帰ってもその事は言うな・・この話は10年間はしたらいかん』と・・『それを言うと北京の刑場へ戻らなならん』と言った・・生体解剖の事も入ってます」

「人を一人殺すという事はどう思いますやろな・・う・・ん・・・」


前線の戦力強化と手術力強化を求められ続けた軍医たち・・太平洋戦争末期、過酷な体験を強いられた元軍医がいます。

大井さん(90)父の後を継いで医師を志し軍医の大量養成を目的とした臨時医学専門部へ入学、昭和18年中国に軍医として着任、その後、昭和20年に沖縄へ転戦し壮絶な地上戦を体験する事になります。

アメリカ軍に追われ南に南に敗走を続ける日本軍、大井さんが所属する部隊も重傷者を抱えながら洞窟を転々とします。

その時、中隊長から下った命令・・それは軍医の使命と相いれない行為でした…

元陸軍軍医 大井正さん(90)
「『働けないものは殺せ・・注射でもして』と・・二人しました・・クレゾールだったかな消毒液、5ccくらい静脈注射したら死ぬんですよ・・自分ではやっぱり良心にとがめてね・・人間としてしてはいけないと・・いくら命令でも・・誰にも教えないです・・自分だけ・・兵隊にも教えない・・本当はしなかったら良かったと思ってます」

同じ日本軍の兵士に自ら手を下す・・その命令は日本陸軍の教えに基づくものでした・・「死傷者は万難を排し敵手に委せざる」傷ついた兵士であっても敵の捕虜になるのは固く禁じられていたのです。

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戦争末期のニューギニア、飢餓や病ですでに部隊の8割が命を落としていました・・帰国のかすかな望みも断たれ兵士たちは軍医である三好さんに訴えます。

歩兵第224連隊 軍医中尉 三好正之さん(93)
「哀願するように懇願するように・・お願いと祈るような気持ちの表情で・・痛みで苦しい・・モルヒネを打つ・・そうしたら安らかに寝て死んでしまう・・それは軍医と兵の契約じゃ・・楽にさせてくれという」

「間違ってはいなかったと私は今でも確信しとる・・あの当時も一生懸命考えているから・・本人と二人で話合いの中でねこれが最高の方法だということは、私は一度も悔いの無い行動をしたという自信はあります」


潞安陸軍病院 軍医中尉 音羽博次さん(94)
「それは人間だからね・・人の命を扱うんだからもちろんありますよ・・今日になってね・・更にそれを暴く必要があるのか・・それはあなた方が考えればいい事であって我々に責めを全部負わそうというのはチョット違うのではないでしょうか」

「そては時々思い出すよ・・戦争に行ってな・・それは死ぬまで大なり小なり思いだすな・・もうちょっと何とかならんかったかという反省もあるし・・医者がやって良かったか悪かったか・・半々だな」

■語りたくない・・出来れば思いだしたくもない戦場の記憶・・戦後66年、多くの軍医たちが今も葛藤を抱え続けています。

■戦場で救う事の出来なかった命の重さを今も背負い続ける元軍医たち・・一度は失いかけた医師としての誇りを取り戻そうとする長い道のりです。

 

 

『世界が語る大東亜戦争東京裁判
吉本貞昭 著 『はじめに』(ハート出版)

 

 

 

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